他人と比べて、敗北感や嫉妬心に苦しむ。
人間、誰しもあることです。
しかしわたしは最近、
こう考えれば、こう生きていけば、人と比べることを軽減できるのではないか?
と思い始めました。
この記事では、そんなわたしの人生経験や思考をシェアします。
敗北を認める
まずは潔く、負けを認めるところから。
この競争社会で、じぶんより優れた成績や地位や名誉を得た人に必ず出会います。
その人に対してしっかりじぶんの負けを認め、拍手を送ることができなければ、ずっと劣等感に悩まされることになるでしょう。
何も失うものがなくなり、迷惑行為に走る人を、揶揄的に無敵の人なんて言ったりします。(嫌な言い方ですが)
無敵の人とはつまり、無敵になってまで勝ちたい人。
「どんな手を使っても、絶対に負けたくない!」そんな劣等感がある、敗北を認められない人。
子どもの頃、何かの競争で負けて悔しくて泣いたことはないでしょうか。
それ自体、とても自然な感情ですが、大人になったら乗り越えていきたい。
つまり人と比べて劣等感に苛まれる感情の裏には、負けを認められない幼さがあるのだと思います。
その幼さに打ち勝てるのはじぶんだけ。
勇気を持って頭を垂れることが必要です。
そして人が本当に勝利するのはいつでしょうか?
それは相手が敗北を認めた時。
敗者がいつまでも敗北を認めなければ、勝者も勝利の美酒に酔うことができません。
例えば将棋の世界です。
負けを確信したら、じぶんから「負けました」と言って頭を下げますよね。
あれはルールではなく、別に持ち時間いっぱいに指すことも可能といえば可能。
でもそんなのなんか、カッコ悪い。
美しい勝利とは、潔い敗北に支えられているのだと思います。
逆に言えばじぶんが勝った時、潔い敗者に対して謙虚さを持たないといけません。
日本の武道の世界では、勝利したときのガッツポーズが暗黙に禁止されていることが多いですよね。
それは敗者に対する敬意の現れだと思います。
また武士の世界では、さらに潔い敗北を良しとする考えが見て取れます。
極端な例では「切腹」などそうかもしれません。
人は、競争することをやめられない。
だったらその競争社会の中で、どんなふるまいをすべきなのか。
他人のためにも、じぶんのためにも。
もちろん、切腹は行き過ぎですが(笑)、
- 謙虚な勝者
- 潔い敗者
でいることは、人と比べる劣等感から逃れるアシストになるのではないかと思います。
それを学ぶのに個人的におすすめなのが、大ヒット漫画『鬼滅の刃』。
物語の終盤、ものすごく強い鬼(敵)である黒死牟というキャラクターで出てきます。
黒死牟は、まさに敗北を認められない人。
そもそも「鬼」は特殊な刀で首を切られるか、太陽に焼かれるかしないと倒せない無敵の存在です。
黒死牟は元は人間ですが、劣等感と嫉妬心がありすぎて、自ら無敵の鬼になった。
しかし最後はなんとも物悲しい幕引きをします。
この物語から、なにか教訓が読み取れるような気がしてなりません。
競争社会の外側に居場所をつくる
しかしそう考えると、わたしたちはずっと負け続けないといけないのでしょうか。
世界の大富豪イーロン・マスクも、資産ではビル・ゲイツに劣ります(笑)
最終的には、勝つのはひとり。
競争が人の性であるならば、どこまでいってもわたしたちは敗者で、永遠の戦いが続くのでしょうか。
それはある意味で本当ですが、ひとつの考えとして競争社会の外側にじぶんの居場所を見つけることが大事だと思います。
多くの人にとって、それは家庭だったり、パートナーだったりするでしょう。
あるいは趣味がそうだと言う人もいるかもしれません。
競争社会の外側とはつまり、条件がない世界です。
いっしょにいることにメリットとかデメリットとか、そんな概念が存在しない。
グットボタンも、バッドボタンもない。
言語化することすらなにか野暮ったいような、ただ「そばにいる」という状態。
そんなほっとできる場所を見つけると、競争社会が全てではなくなり、客観的に見ることができます。
競争社会の渦中に身を起きながら、そのように俯瞰的に捉えるのはとてもむずかしい。
だから1日の中で、あるいは1週間の中で競争社会の外側にいる時間を意識してつくってみてください。
SNSをやめる
しかし実は多くの人はそんな高慢でもないし、ほっとできる居場所をすでに持っていたりする。
それでも他人との比較をやめれられないのは、その悪習慣が手のひらにあるからです。
スマホとSNSが、24時間、臨戦態勢でこちらを見ています。
SNSとは典型的な競争社会。
わたしよりフォロワーの多いあの人
わたしよりバズっているあの投稿
それらが1,000も2,000も、タイムラインを流れていく。
全てが数値化される世界に身を置いて「人と比べるな」といってもそれは無理です。
それはわざわざ食べ放題ビュッフェに行って、腹八分目で済まそうと努力するようなもの。
だったら最初から、その世界と距離を置くのが望ましい。
家族やパートナー、友人と一緒にいる時。
その時ですらSNSをチェックしていませんか?
「人と比べることをやめたい」と思っているのに、気心しれた相手といる時間をSNSに奪われる。
自ら積極的に人と比べる習慣に足を突っ込んでしまっている。
スマホとSNSは、強力に習慣化(悪習慣化)するシステムがふんだんに盛り込まれています。
現代はスマホ無しで生活するのがむずかしく、かなり意識しないとスマホ時間を減らせません。
とりあえず親しい間柄の人といっしょにいる時は、スマホをカバンの中にしまっておくことから始めてみてください。
与えられたじぶんを満喫したい
競争社会がある前提で、
- 競争社会の中であるべき振る舞いを学ぶ
- 競争社会の外側に居場所をつくる
- 競争社会へ誘うSNSと距離をおく
3つを提案してきました。
わたしはここ最近、
他人を評価せず、じぶんを満喫する
ことを意識しています。
見た目や能力、得意、不得意が他人とは違うじぶん。
できること・できるないことを含めて、そんなじぶんを味わい尽くしたい。
そう思った時、他人を評価するその考えや目線が邪魔になると感じました。
他人を評価してばかりいると、上から目線が身につき、人を見下すようになる。
人を見下せば、結局じぶんを卑下するようになります。
そうすると、じぶんを満喫することもむずかしくなる。
例えば大谷翔平選手なんかは「じぶんを満喫しているなぁ」と思います。
一心不乱に野球に打ち込むその姿は、与えられた才能を存分に味わっているように見える。
そして彼の仕事である野球という競技に対しても、打って、走って、投げて、守って、隅から隅まで満喫していますよね。
まさに競争社会であるプロスポーツの世界でこそ、実は他人と比べずじぶんを満喫する精神が必要なのかもしれません。
わたしたちは大谷選手ほど、なにかの才能に恵まれていないでしょう。(たぶん)
でもその「恵まれていないこと」も、ちゃんと満喫できているかというと、できていない人が多いのではないでしょうか。
勝敗は実は人生のスパイスに過ぎなくて、ほんとうに大事なのは「与えられたじぶんを満喫できるかどうか」なのかもしれない。
今、そんな風に思っています。