斬新な表紙のこの本。
文章を濃厚に読ませようとする気概を感じてなんだか読む前からたじろいでしまいます。
が、読んでみると非常におもしろかったです。
「極東ブログ」で人気なったfinalvent(ファイナルベント)さんの著書。
と言っても、ブログの話はほとんど登場せず、55歳までの半生を振り返る内容になっています。
わたしはこの本の副題「空しさを希望に変えるために」に惹かれました。
わたしはまだ30代半ばですが、少しづつ空しさというものに取りつかれてきている気がします。
結果的にこれを読んだからと言って「空しさ」が解消されることはありませんでした。
しかし同時に何かほっとするような想いも抱きます。
本書は「自分の人生はからっぽだった」と始まります。
多くの本は成功者が成功の方法を書いていますよね。
「何者」かになろうと努力し、そのための方法を探している人が世の中には多いし、わたしもそうである(あった)ような気がします。
しかし年齢を重ねると、子どもの頃に純粋に夢見たような「何者」にはなれなかった現実を突きつけられます。
おそらくほとんどの人がそうであるはずです。
しかし敗北の処方箋は、本はおろかネットの世界でもなかなか見つけることはできません。
そんな中、『考える生き方』は「自分の人生はからっぽだった」と悲観的な意見が始まっていきます。
とは言え、客観的に見てfinalventさんの人生はからっぽではないし、ましてや敗北したとも言えないと思います。
まず人生最初の挫折として、大学院を卒業できなかったことを挙げています。
しかし彼の能力は一般的に見ればとても高いと思われました。
言うなれば、ジャイアンツにドラフト1位で入団したものの、2軍どまりで引退する選手のような。
プロでは確かに活躍できなかったけれど、その実績と能力、才能があればコーチとしては引く手数多だったりします。
実際、学問の世界で挫折したfinalventさんも市場ではたいへん希少なスキルを有しており、フリーランスのテクニカルライターとして長く活躍されました。
それは十分、素晴らしいことに思えます。
一方で「客観的に見て不幸じゃない」と言えることとは別に「悲しみは固有で、主観的であっていい」とも思います。
そう考えると、この本に書かれている執拗ともとれる悲観は、ある種の文学のようにも思えました。
また「敗北」には大きな価値があるように思います。
性格には「敗北を認めること」です。
最近のニュースでも森喜朗さんが不適切な発言でオリンピック・パラリンピック組織委員会の会長を辞任しました。
不適切ではあったにせよ森さんも長いキャリアの中で日本に貢献してきたことはあったでしょう。
それらを顧みることなく、キャリアの最後をあのような批判での幕引きになるのはなんとも切ないなと思います。
自分と世間がずれていると感じた時、つまり敗北がうっすらと見えてきたとき、それを認めることができていたなら、このような最後にはならなかったのでしょう。
誰しもが晩年は敗北者になると思います。
しかし敗北することで若い人に道をつくることもできる。
その意味で「最後の花道」を飾る技術は大人にとって実に重要なスキルなのだと思います。
finalventさんの悲観は敗北を認める立派な態度だと受け取ることもできるでしょう。
finalventさんは記事執筆現在もTwitterやブログなどで発信されていますし、執筆活動は続けられているみたいです。
このような悲観論を発信した人が、どのようにキャリアを終えるかは非常に興味があります。
今、SNSの力でかつてないほど「何者かになろう!」という圧力が強まっています。
その弊害がいろんなところで出て来ている気がします。
その圧力でもって背中を押され、何者かなろうともがいた「発信」は時にデジタルタトューとなり長くその人を苦しめるかもしれません。
おそらく前時代より多くの人が、しかもより早い段階で「敗北」に直面するでしょう。
その態度を学ぶために本書は読む価値があると思います。
なにせブロガーが書いたエッセイですから、全体的に暗いトーンでも読みやすくまとまっています。
濃厚なエッセイが読みたい人にはおすすめです。