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無職の何が悪い?無職みずから、考えてみた

無職って有無を言わさず悪いものって感じがしますよね?

でもかみ砕いて「何が悪いか?」よく考えたことってあるでしょうか?

 

この記事では、無職のわたしみずから「無職の何が悪いのか」を考えてみたいと思います。

自己批判(笑)

 

無職は働いていないから、悪い

勤労は国民の義務!

義務に反した無職は非国民!

っということで、話を終わっても良いのですが、ただ「国民の義務だから」ではとても自分の頭で考えたとは言えないですよね。

 

そもそもなぜ「勤労」は義務なのでしょうか?

そして日本人のみならず、世界中で「勤労」は義務に思えます。

人類みな労働!

そうなると、「そもそもなぜ人間は働かないといけないのだろう?」という問いの答えが、「なぜ無職が悪いのか?」の答えになりそうですよね。

働かないことが悪い理由

2019年のラグビーワールドカップはご覧になりましたか?

テレビ中継時にクボタのCMが流れたいたのを覚えているでしょうか。

コレです↓

www.youtube.com

ラグビーが好きだった少年。

ある日、母親が体調を崩して、少年が水くみの仕事をしなければいけなくなった。

そのためにラグビーを諦めざる得なくなります。

友達が水くみを手伝ってくれて、なんとか日常を取り戻していくわけですが、彼は大人になりクボタの職員になり水道を町に通した。(そうして自分と同じ悲しい思いをする少年たちを救ったのだ…)

という内容です。

 

これつまり誰かが働いていないと、ラグビーすらできないわけですね。

 

もし国民みんなが自給自足をしていたら、水を組んだり、田畑を耕すのに忙しくて、イチローも松井秀樹も生まれていないはずです。

高度に効率化された社会だからこそ、スポーツや芸術、エンタメに勤しむ人間が存在できる。

スポーツの世界なんて、特にわかりやすいですよね。

お金のかからないサッカーは別としても水泳、体操、スケートなんかは先進国の選手がほとんどに思えます。(体操とか黒人選手が本気出したら、日本人勝てなさそう…)

 

しかしここで大切なのは、ただ働くのではなく効率的に働くという点です。

思えば、少年の水くみだって「仕事」ですよね。

仕事とはなにも会社に雇用されて給与を貰うことに限定されないはずです。

雇用されて働くことも少年の水くみも、同じ「仕事」であっても、一方は礼賛され、一方は禁忌するものとして扱われているように思えます。

それはひとえに「効率的か?否か?」という点に尽きるでしょう。

 

効率的な社会とは簡単に言えば、労働を一か所に集めて、再度分配することで、全体の生産量を上げることです。

自給自足の村を思い浮かべてみましょう。

自給自足は非効率だから、どうするかというと、それぞれの得意なことをみんなの分を含めてやっちゃえば良いんですよね。

例えば、農作業が得意な人はみんな分の田畑も耕す。

料理が得意な人はみんな分の食事も作る。

掃除が得意な人は、織物が得意な人は、大工が得意な人は…。

っというようにその仕事をより早く、楽にできる才能をもった人がみんなの分をやった方が村全体の効率が上がり、やがて「余剰」が出てきます。

その余剰はさまざまな場所で使われるようになる。

歌が得意な人が歌を歌えるようになり、頭の良い人が医療を学べるようになる。

 

ひるがえって現代社会を見れば、まさにそのようになっていますよね。

食品をつくる専門会社が大量に作り、流通会社が全国に素早く届け、小売りが消費者に販売する。

分業化、効率化が進んでいる日本だからローソンで美味しいロールケーキが買えます。

 

その効率的な社会に参加しないことはイコール社会の豊かさに貢献しないという理屈になるでしょうから「無職は悪い!」と結論付けることができるわけです。

 

無職を許容できる方が豊か

無職にも種類がありまして、

  • 働きたいけど、働けない人
  • 働けるけど、働きたくない人

がいます。

 

おそらく前者(働けない人)は「しょうがいないよ」と、許容できる人は多いでしょう。

逆に後者に対して厳しいははず(笑)

 

「働けるけど、働きたくない…」

率直に言ってダメな奴です、弱い奴です。

いや実はそんな悪ふざけのような無職なんてほとんどいないと思います。

言葉にすれば軽薄かもしれませんが、それぞれが弱さを抱えて無職になったとわたしは思います。

 

ここで問いたいのは「はたして無職が十分に無職でいられない社会は豊かか?」ということです。

素朴に考えて、無職を許容できない社会は余剰がない社会だと思われます。

そして社会は余剰を作り出すためにあります。

つまり社会に貢献しない無職は悪だが、一方で無職を断罪すれば、社会そのものの大義を見失うというジレンマ。

 

それに健康的な無職はけっきょく働きたくなりますよ(笑)

わたしがそのパターンです。

フリーランスで気ままな仕事ですが、やっぱり働いちゃうんですよね…。(定職についていないという意味では未だに無職なわけですが)

今年はけっこう税金も納めました!(笑)

 

また無職とは直接関係ないですが、「高度に分業化、効率化された社会」にはそれなりに問題も存在します。

搾取格差といった病理…。

「労働力を一か所に集めて、再分配する」のが余剰を生み出すキモでしたから、集めた労働を分配する仕事が必要になります。

その分配係とは会社で言えば、経営者だし、国で言えば政治家でしょう。(ごく自然にその分配係に権利が集中しますよね)

 

労働がいったん上に吸い上げられ、再分配されるので、労働者は消費者に自分の仕事が届いている実感を持ちにくいし、消費者に価値が届くまでに分配係による中抜きで価値が目減りします。

それが労働者が感じる不公平感の源であることは想像に難しくありません。

しかし先ほどのとおり、社会全体の効率化のためには「一か所に集める」というプロセスは必要不可欠です。

 

あなたの身近な無職さんはもしかしたら、この「効率的な社会」の病理に悩まされているかもしれません。

そして効率的な社会を絶対善とする価値観に打ちのめされているのかも。

「効率」を絶対善としたら、家庭の家事や子育ても否定されかねません。

家庭の仕事は全て外注して、自分は自分の仕事をした方が良いだろうと言えてしまうからです。

ところが「自分の仕事」が誰にとっても満足いくものであり、生きがいになっているわけではありません。

むしろ家庭での家事、雑事を家族と共有することが人生の満足感を生む場合も多いはずです。

それなのに過度に効率を求めすぎると…。

「効率」という価値観にとらわれて、心が燃え尽きてしまっています。

 

そんな社会でも、個々人がほどよく非効率な仕事を取り入れることはできるはずです。

わたしはアパート暮らしですが、隣の家の階段や廊下まで掃除をします。

そのお礼に隣人から、何かお菓子でも貰ったとしましょう。

すると仕事と価値が直接取引されていますよね。

これがもしプロの清掃会社にお願いした場合、管理費というカタチでお金を支払う必要が出てきます。(しかも住民全員が)

そしてそのお金は清掃会社に一か所に集められ、清掃員に分配される。

そう思うと、隣人同士でササッと掃除してしまった方がかえって効率的に思えますよね。(少なくとも、わたしと隣人の間では。)

もし効率的な社会の病理にさいなまれているのなら、こういったローカルな仕事を自分の生活に取り入れてみることをおすすめします。

価値やお金が縦に移動する経済ではなく、横に移動する経済…。

そんなイメージです。

 

無職は悪いけど、否定しない方が良い

そして同じ意味で無職を頭ごなしに否定するのはやめた方が良い

無職を否定するとは、「この効率的な社会に参加しろ!」というメッセージとイコールです。

その瞬間、あなたの中の「効率的な価値観」が強化され、どんどん逃げられなくなります。

にも関わらず、誰しもがこの社会の中で、挫折する可能性があります。

その時、無職を否定したその分だけ強い刃となって、今度はあなたに「効率的な価値観」が襲い掛かってくるでしょう。

 

無職は悪い。

考えてみたら、たしかに悪かったですね(笑)

でも、

  • 無職を許容する社会が望ましい
  • 誰しもが無職になる可能性がある

という2点において、無職は否定できないものでした。

 

そんなわけで、ダラダラしている無職を見るとなんかむかつくでしょうけど、自分のためにもなんとかその怒りをおさめて下さい(笑)

たぶん周りが楽しくいる方が、無職さんも無職を辞めやすいでしょうしね。

 

以上、「無職の何が悪い?」という話題でした。

参考になったかはわかりませんが、何かしらを感じていただけたらうれしいです。

 

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