数年前から「ツイッターしんど~」と思っていて、6月にアカウントを削除しました。
わたしはブロガーですから、ツイッターにはめちゃめちゃお世話になっていて、ブログ仲間や読者に出会えたり、記事が(ほんのり)バズったこともありました。
っていうかブロガーがツイッターをやめるなんて、邪道中の邪道。
でも、しんどかったー。
特にステイホーム期間はその煩わしさがMAXでした。
ほとんど写真週刊誌レベルの話題がトレンドに蔓延していて、もう見るのがツラかった。
そもそもずっとツイッターに対する辛さは感じていて、それでも仕事上辞めれずに今年の6月までいたわけです。
根本的に「ツイッターつらっ」と思う理由はなんだろうな?と考えるとそれは「双方向性」によるものだろうな、と思います。
ツイッターやYouTubeは「応援上映」だからしんどい
ツイッターやSNSでは、受信者でありながら、常に発信者でもありますよね。(逆もしかり)いくら「見る専(←もういわない?)」を気取っても、そこにアカウントを作って参加しているのだから、当事者性は常に帯びているわけです。
当事者であるからには責任が生じます。
誰かに、何かに、批判的な目を向けても、それが常に自分に返ってくるような気がするんですね。
ネットスラングで言う「ブーメラン」
実際にツイートすれば、ブーメラン現象は避けられない気がします。
常に「みんな」に囲われている気がして気持ち悪かった。
いいね!やリツイート、フォロワーとはごく自然に「徒党を組む」ことを促します。
わたしはわたしの発言に「徒党する人」に対して責任はそうとれないと思いました。
ツイッターだけでなく、YouTubeもわずらわしい。
YouTubeのコメント欄や視聴回数の表記。
動画に対する盛り上がりを可視化するものであり、コミュニティが形成されているようにも見えます。
でも作品に対する他人の意見なんて、基本的に見たくないんですね。
例えば、Amazonでも買う気満々で商品ページを開いたのに、低評価のレビューを見つけて、なんか萎えたりってことないですか?
「いや、気持ちよく買わせてくれよ!」と。
自分で考えて、自分で責任をとりたい時も、常に他人の評価がくっついてきて煩わしい。
いわばSNSやYouTubeは映画でいうところの「応援上映」に感じます。
あれって作品を受け取ることより、その作品をみんなで共感しあうことがメインになっていますよね?
いや、それはそれで良いのですが、作品とひとりで向き合いたいことないですか?
「茶室」というと大げさですが、静かに作品と向き合うような視聴環境が欲しい。
良いも悪いも、まずは100%自分で感じて、自分で考える時間と場所が欲しい。
SNSやYouTubeは双方向性が前提としてあるシステムなので、常に「みんなの中のひとり」として振舞うことを強制されてしまう(気がする)
まぁ、考え過ぎっちゃ考え過ぎで、けっきょく何よりも他人の目を気にしているのは自分ということになりますが。
無責任でいられるテレビとブログ
で、テレビです。
テレビは無責任になれますよね~。
テレビの中の人はどこか別世界の人。
自分は完全なる傍観者。
そのくらいがホッとします。
そのテレビの無責任な関係性を双方向性のあるネットに持ち込むから、芸能人は無慈悲に叩かれるし、また逆に一般人が誹謗中傷で訴えられたりするんでしょうね。
ブログは発信者としてほどよく無責任になれるがイイ。
例えばこのブログはコメント欄を開放していないし、ツイートボタンも外しているし、フェイスブックで言及されても気づけません。
この記事を読んだ人は自分の心で頭でこの記事の感想を得るしかできません。(完ぺきではないけれど)
わたしもあまり考えずにサクサクっと無責任に記事を書けます(笑)
得てして、そんな文章が美しかったり、おもしろかったりするんですよね。(いや、自分のことではないですよ)
まぁ、テレビもブログも徐々にレガシー化してきて廃れていくと思います。
でもそのぐらいの過疎地の方が心地よかったりもして。
ちなみに最近おすすめのテレビ番組はタカさんの『石橋、薪をくべる』です。
落ち着いた一体一のトークで、出演者もバラエティに富んでいて、なかなか教養を得られる番組だと思います。
あとなんかNHKのBSプレミアムで類似番組がはじまってました(笑)→魂のタキ火 |NHK_PR|NHKオンライン
このブログも読者の方と焚火を囲んで静かに接するようなブログになったら良いなぁ。