倉下さんのブログはときおり読ませていただいており、著作も何冊か持っています。
2021年7月に刊行された新刊『すべてはノートからはじまる』を買いました。
その名のとおり「ノート」について語られています。
すべてはノートからはじまる
書かされているのか、書いているのか
思えばわたしたち現代人は、日々何かを書いているのではないでしょうか?
SNSは誰にとっても手軽なものとなり、You Tubeのコメント欄、Amazonのレビュー欄など、ネットでなにかしらを書いたことがある人は多いと思います。
ただほんとうに自由に書いているかといえば、それは疑問が残ります。
たとえばSNSが煽る射幸心、ブログの広告収入。
それらが書くことが原動力になっていることも多いはずです。
わたしたちが今、書くこととは「〇〇のために書く」といった目的ありきの行為かもしれません。
いわば、自由に「書いている」のではなく、なにものかによって「書かされている」状態。
しかし本書で語られているのは、自由に書くことの有用性です。
書くことがネットのアルゴリズムや市場原理に巻き取られる中で、それらから自由になり、ただ書く。
目的なき書く行為の礼賛。
しかし目的がないことと、意味がないことは違います。
本書を読むと、ただ書くことのおもしろさ、その意味ををひしひしと感じることができるでしょう。
むずかしいと感じた本、だから読むべきで、書くべきだった
わたしはなんども立ち止まりながら、ゆっくりこの本を読みました。
新書ですから、どちらかといえば「読みやすい」部類の本であろうと思います。
しかし、著者の倉下さんは決して安易な答えを提供しません。
「今すぐ使えるライフハック」のような情報は少ないように思います。
抽象的なぶぶんを、ゆっくり考えながら読みすすめていく必要があります。
それでいて300ページのボリュームがあるんです。
300ページを考えながら読むことは、今のわたしにとってなかなか骨の折れる作業でした。
だから休み休み、ゆっくり読みことになったのです。
思えばそのような読書体験はひさかたぶりのこと。
「読みやすさ」は明らかに良書の条件のひとつのように語られています。
ところが、読みやすさに偏向すると、まるでまとめサイトやニュースアプリのように、ひとつひとつの情報をただ消費するだけに留まってしまいます。
本に求められることは、たんに情報を消費することではなく、血となり肉となるような「考える」行為であったろうと思うのです。
わたしもついつい「読みやすさ」を選んでしまいがち。
しかし、それが悪い習慣になっているような気がしていました。
だからある意味で「考える」ことを強要してくるこの本を、わたしは読み切る必要がありました。
そして本書には、感じたことをノートに記すことで考えることが促進されるとあります。
湧き水に浮かんでは消える泡のように、人は何かを感じては忘れてを繰り返している。
その一瞬の泡をノートに書き残すことで、感情が相対化され、理性でもってあらためて「考える」ことができると。
つまりこのブログもまた、わたしが「考える」ために書いていると言えるでしょう。
実際にこの文章を書きながら、なにか頭の中がクリアになっていく感覚があるのです。
むずかしいと感じた本。
だから読まなければいけませんでした。
そして書かなければいけなかったのだと思います。
その意味では、実は多くの人におすすめできる本ではないかもしれません。
この本は、あなたが今もっているストライクゾーンのど真ん中に刺さることを良しとしないからです。
むしろ「ボール球もすこし振ってみなよ?」と提案しています。
となると、これは逆に多くの人に読んでほしい1冊になります。
ストライクゾーンのその枠組が、悪癖になっていることが多々あると思われるからです。
とりわけ現代の情報環境にはびこる悪習慣は強烈なもの。
ネットとは乖離していると思われる書店でも、今やAmazonでの販売数やランキングを評価基準のひとつとして強く押し出しています。
そしてAmazonのランキングをハックすることは、もはやインフルエンサーの常套手段になっています。
つまり、アルゴリズムと市場原理があらゆる情報環境を飲み込もうとしているのです。
本が「考える」媒体から、単なる消費アイテムへと変わりつつあると言えます。
だから「ノート」が必要なんでしょう。
情報の大波を自分の力で受け止める防波堤。
それがノートです。
わたしもできることなら、このブログを自分らしいノートにしていきたいと思います。
すべてはノートからはじまる