わたしはずっと「世間とは違う生き方」をしてきたように思います。
四年制大学を卒業したまでは良かったのですが、早々にレールを降りてフリーター生活に突入。
その後フリーランスになったものの、バイタリティがないので毎日ダラダラ働いています。
稼ぎはそこそこあるものの、定職についていないという意味では無職。
わたしのような無職の生き方って「オルタナティブ」だと思ってるんですね。
オルタナティブとは「代替え」という意味。
社会の本流から外れた支流の生き方です。
社会一般の多数派であるサラリーマン(本流)になれなかった人がそれでも生きていける貴重なゾーンだと思います。
「オルタナティブ」は「アウトロー」と近い
でも、そんなオルタナティブな生き方をしていると思うのは、実はわたしたちオルタナ勢は本物のアウトローと近い位置にいるのだな、ということ。
ここで言うアウトローとはカッコいい不良のような意味ではなくて、もっとヤバい「逸脱者」みたいな意味。
例えばですが、野菜の「オーガニック」ってオルタナティブな存在だと思うんです。
安価で大量生産される野菜が主流。
それに対してのオーガニック野菜はオルタナティブです。
ところが、最初は健康とか味の部分でオーガニック野菜が好きになったけど、どんどんハマっていくうちに、山奥で危ないハッパつくるようになっちゃった、みたいな(笑)
いや、笑い事じゃなくて、オルタナティブが過激化すると気づいたらアウトローになっていることってけっこうあるんですね。
ぼくがやっているブログの世界もそうです。
最初は普通の「ブロガー」だったのが、気づいたら中身のないテキストを高額で売る「情報商材屋」になっている。
そんな人はここ数年で何年も見てきました。
ブロガーから情報商材屋に、情報商材屋から詐欺師に…。
占いからスピリチュアルに、スピリチュアルからカルト宗教に…。
ゴシップ好きが陰謀論者に、陰謀論者が極左(極右)に…。
無職でも社会に背を向けないことが大事
そんな例は列挙にいとまがありませんが、オルタナティブで生きていると、アウトローの誘惑は確実にあると思います。
無職というと、いちばん問題視されるのはお金がないことです。
でも本当に危険なのは、そんな風にアウトローに近くなること。
逆にお金があっても、お天道様に背を向けた生き方は悲しい。(不思議なもので本物のアウトローは得てしてお金持ちなんですよね)
わたしもたまに憧れのまなざしで「そんな風に生きてみてい」と言われることがあります。
そりゃあ、誰だってあんまり働きたくないですもんね。
しかし同じようなオルタナティブな生き方を勧めることはよくよく注意するようになりました。
アウトローに取り込まれるリスクがあるからです。
なんせ無職になると時間があり、今はインターネットがあります。
だからどこまでも深く興味を探求することができます。
それが悪い方向に行く可能性もやっぱりあるんですよね。
きっと社会のことが嫌いになる瞬間って多くの人が経験すると思うんです。
それこそ理不尽に会社をクビになって無職になった瞬間。
でもその時に社会を恨んで、アウトローへと落ちないことが大切です。
自分を責めるのも、社会を責めるのもほどほどにして、ふっと力を抜くのが大事。
『20代で隠居』の著者で大原片理さんという方がいます。
大原さんはわたしのいう「オルタナティブな生き方」をしている人です。
著書の中で、
隠居は世捨て人ではなく、世離れ人
といったことを述べています。
完全に社会に背を向けるだけでなく、ただ一般の人より社会の中心から距離をとっているだけ。
この言葉にはすごく共感します。
やはり大切なのは、その社会の同心円の外側に完全に落ちてしまわないこと。
そのために必要なのは、ほどほどに働くことだったり、オシャレすることだったり、映画やドラマ、マンガを楽しむことだったり…そんな普通のことを楽しむことなのかもしれません。
自分の興味を深めつつも、社会という大きなモノも知っておく。
そんなバランス感覚が実は無職こそなおいっそう必要なんだと感じています。
今、無職になった方。
そのやさぐれた気持ちを収めて、とりあえず鬼滅の刃でも見てごまかしましょう(笑)
大原さんの『20代で隠居』もとてもおすすめです。
わたしは何度も読み返す愛読書になっています。
※文庫版になりタイトルが変わりました↓