今、このタイミングで読めてよかったなと思える本でした。
普段じぶんがモヤモヤと考えていることを、スパスパと解説してくれるような。
狂った世界の理由
わたしは今現在、SNS(とりわけツイッター)に違和感を持っています。
もうそれは嫌悪感と言って良いかもしれません。
そう感じるようになったのは、さまざまな理由やきっかけがありますが『ものがわかるということ』を読んで、その違和感がある意味で自然なことなんだなと、ちょっとだけ安心できた。
養老孟司さんは今の情報化社会を脳化社会と呼びます。
情報社会とはつまり脳みそだけを投影した世界であり、首から下を働かせることがありません。
言葉だけの世界です。
そして本書では、言葉とはカチンカチンに固定化されたものだと言います。
同じ言葉をみても、今と10年前では感じ方が違いますよね。
それは自分が流動的であるのに対して、言葉が固定的であるからです。
SNSには「今」とか「新しさ」が溢れているように思いますが、その実、なにか同じことの繰り返しをみているような徒労感も感じないでしょうか。
それは言葉そのものが、固定化されるものだからでしょう。
執着すれば鬼になる
わたしはずっと、SNSの中にある「まるでじぶんだけが死なないような物言い」に違和感を感じていました。
とりわけ未来予測に関する言説です。(今だったらAIかな)
メディアは「来るかもしれない未来」に備えるよう訴えてきますが、しかしそれは「来ないかもしれない未来」でもある。
そして多くの場合「じぶんがいないかもしれない未来」という発想がごっそり抜け落ちています。
未来予測はなぜか、当事者性を失わせる。
だから「まるでじぶんだけが死なないような物言い」になっていく。
それもやはり、言葉が「固定化」されるという性質から理解できます。
決して変わることのない言葉という概念がじぶんの中にすっかり浸透した時、その言説から当事者性が消え、無責任さが増していく。
そこに残る「予測」は、人間を置き去りにした「当たった、外れた」といったギャンブルだけです。
未来予測、そして未来に備えるとは堅実なようで、実は人生をギャンブル化することなのかもしれません。
そんなことを考えると、ふと『鬼滅の刃』が思い起こさせました。
あの話で鬼は元々人間で、中でも強い鬼は強い執着心をもっていたが故に鬼になっています。
命、強さ、嫉妬、美貌など、本来変わりゆく現象に対して「変わりたくない!」と執着した結果、永遠不滅の鬼になること選んだ。
同じようにSNSなど固定化される世界に身を投じるとは、少なからず鬼(=不滅)になろうとする態度だと思うのです。
しかし物語の中で、全ての鬼は後悔の中で消え去っていく運命をたどります。
人は誰しも「死にたくない」という素朴な感情を持っている。
だから固定化される言葉の世界に魅力を感じるのは、しかたがないことだと思います。
一方で「まるで死なないような物言い」から感じられる無責任さと上から目線は、今のわたしにとって耐え難い。
死ぬと「わかる」ことはたいへんに難しい。
でも鬼にならないためには、勇気をもって見つめる必要があるのかもしれません。
アカウント扱い
そんな鬼は、現実にたしかに存在している気がします。
このところ、じぶんのことを「人間」ではなく「アカウント」のように扱われたなと感じることがありました。
アカウントとはフォローしたり、フォローを外したり、また指先一つブロックできる存在。
わたしがもつ「情報」の合う合わないだけで判断され、合わなければ気軽にブロック。
現実でもそんな態度、行動をとる人がいます。
そんな人はわたしにとって鬼。
人と人との付き合いには、アカウント的な情報だけではなく、「目線」とか「声色」などからしか感じられない、なにかが必要でしょう。
それは属に「フィーリング」と言ったりします。
人間同士がフィーリングを確かめ合うには、ていねいな行いと、長い時間が必要です。
ところが鬼は、ひとたび合わないと感じたら、次の「情報」へと飛び移っていく。
まるでタイムラインをリロードするかのように。
それはわたしにとって、怒りや悲しみの出来事でした。
では人をアカウント扱いせず、じぶんも鬼にならないためにはどうしたら良いのでしょう?
そのためには養老孟司さんが言う「ものがわかる」ことが必要なんだと思います。
手入れをする
脳化社会の一方で、首から下を動かすこともブームになっています。
キャンプや筋トレ、サウナや瞑想など、情報から感覚の世界へと誘うものが人気です。
ところがややこしいのが、それらの事柄もSNSにアップすることが目的になっている場合が多々ある。
本来、感覚を磨いたり癒やしたりするための事象が、脳化社会で点数稼ぎするための道具になっている。
なにか取ってつけたような「田舎暮らし」とか「移住」、「家庭菜園」の発信。
それはけっきょく、脳化社会をじぶんのメインに置いているからだと思います。
そうではなく、本来の意味で感覚や感性を磨くにはどうしたらよいのか。
本書の後半では「手入れ」という言葉が出てきます。
この「手入れ」が大きなヒントになっているように感じました。
「手入れ」は自然と付き合うときだけ必要なのではありません。身づくろい、化粧、子育てなど、日常生活のあらゆる場面に関わっています。仕事をするときも、家事をするときも、食事やレジャーを楽しむときも、心の底に「手入れ」という気持ちがあるかどうかで、小さな判断すら変わってきます。
今はまだ、この「手入れ」ついて、わたしははっきりと「わかって」いません。
なんとなく、おぼろげに「こうゆうことかな?」というのはあるのですが。
でもすごく必要なことだと感じます。
態度で選ぶ、態度を選ぶ
現実社会でも情報社会でも、さまざまな「場所」があります。
場所を選ぶ時、そこに「欲しい情報」があるかどうかではなく、「身につけたい態度」があるかどうかで選ぶ必要がある気がします。
少なくともその尺度を持っておいた方がいい。
SNSには、わたしにとっても欲しい情報がたくさんあります。
しかし身につけたい態度がない。
情報よりも態度のほうが、今のじぶんにとってより重要な気がします。
だから思い切ってSNSをやめて、良い態度がある場所に時間を使っていきたい。
「言葉は固定化される」とか「手入れ」とか、ちょっとわかりにくい言い回しを紹介しました。
ぜひ、詳細な部分は本書を読んでみてほしいと思います。