壊れそうな時、とりあえず仕事を辞めて体と心を休めれば良いのではと思う。
けれど、どうも物事はそう単純じゃないなとさいきんになって思います。
ちょくちょく仕事を辞めて無職になり、失業保険をもらいながら休み、また働くという知人がいます。
彼は独身で派遣社員だから、そんなライフスタイルができるというのはある。
例のごとく「労働は悪!」と思っていて、そんな暮らしになっているようだ。
しかしそんな彼が無職期間なにをしているかというと、ツイッターで文句ばかり言うことだ(笑)
曰く、
結婚して妻子をもつ男を尊敬したことがない。
正直言って、「アホだろ?」としか思わない。
だそう。
彼はまた、これからその「アホ」たちとまた働く。
今もその「アホ」が働いて納めたお金で失業保険をもらっているというのに。
ツイッターだけじゃないが、「いいね!」を集めるためにはどうしても「上から目線」で汚い言葉遣いをするほうが良い。
でも、現実の世界ではそんな態度をとるわけにはいかないだろう。
しかしツイッターのなかで「そんな態度」ばかりが身についてしまうと、現実世界に還元してしまうこともある。
実際に彼は数年前、「ハンマーで殴り合う」なんて言われたはてなブックマークの感覚を現実世界で行使してしまって、みんな去っていった。(わたしもその一人)
これは現代社会の罠ではないだろうか。
会社を辞めて心身が回復するのは、ひとつはヒエラルキーから開放されるからだと思う。
しかしインターネットのせいで、家の中までヒエラルキーが追いかけてくるようになった。
ひとりになっても「俺は負けてないんだ!価値があるんだ!」と叫び続けるその姿は、なんだか物悲しい。
回復することはおろか、よけいに偏屈になって、社会に帰還する(もしくはできなくなる)。
しかし偏屈な心持ちでは、またその先でストレスやヘイトを貯め込むことになるだろう。
彼を見た時、「仕事辞めて、ゆっくり休めば」は万能の薬にならないんだなと思う。
人はみな「自己承認欲求」があり「自己肯定感」を求めている。
けれど「承認」ってなんだろう?
承認されたと素朴に感じられる時、それは「なんでもないけど、そばにいたいね」と人に言われた時、そんな態度をとってもらえた時ではないだろうか。
その相手は家族だったり、友達だったり、恋人だったりいろいろだが、大切なのは「側にいること」に(限りなく)条件がないことだ。
「〇〇だから」という理由が、そこに存在しないほうが良い。
SNSでも会社でも、ある条件のなかで人は関わり合う。
その条件は端的に言えば「有能なこと」だ。
あるいはフォロワー数やいいね!数で、あるいは給料や肩書で、その有能さは測られる。
その尺度のなかでもいっときの承認はあるように思う。
けれど「条件」は日々変わっていくから、それに執着したり、失った時に深い喪失感に襲われることになる。
人はみな、条件のない世界で、ほっと一息入れる瞬間が必要なのではないだろうか。
そばにいたい時、理由なんて思いつかない人が必要なのではないだろうか。
その人と、そんな瞬間が訪れた時、ほんとうに「休める」時間になる気がする。
そしてまた戦いに出かける活力が生まれてくる。
くだんの彼も、楽しい心をたくさん持っている人だと思う。
けれど「条件のある世界」に日々、染まっていっていくようでなんだか心配だ。
できることなら、ほっと一息つける誰かを見つけてほしいなと、遠くから祈るばかりである。